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2022/07/29 コラム

【コラム】鎌倉殿の13人 比企の乱 時政が滅ぼした理由のウラに豊富な鉄?

 

今回は「比企の乱」についてご紹介します。

比企の乱というとまるで比企氏が起こした反乱のような印象を持たれますがそうではありません。

次第にその影響力を増した比企氏を脅威に思い、北条時政が薬師如来の「落慶法要」※と偽って比企能員をおびき出し、誅殺した事件のことです。

※落慶法要とは、お寺の新築などの際に営まれる、今でいう竣工式のこと

では北条氏はなぜ比企一族を滅ぼそうとしたのでしょうか。今回も書籍「甦る比企一族」と、比企総研の髙島代表から伺ったお話から推測も交えご紹介します。

一つ目。

それは、比企氏が頼朝、頼家と二代にわたってその乳母となり、源家とついに外戚となり、頼朝亡きあとは北条氏以上の深い結びつきとなったこと

比企尼の夫、「掃部允 遠宗(かもんのすけ とおむね)」は若くして京に上り、源為義とその子、義朝に仕えました。やがて義朝に子(頼朝)が生まれると誠実な人柄が見込まれ、遠宗と比企尼はその乳母に選ばれました。

また頼朝の子、頼家の乳母には比企家の跡取りである比企能員が選ばれます。

その後の鎌倉殿2代にわたり比企家が乳母をつとめました。

加えて比企能員の娘「若狭の局」は二代将軍頼家の妻になります。子の一幡が生まれると、外戚として益々結びつきは強固なものになりました。

二つ目は姻戚関係を結んだことで武蔵国の中央に比企氏を中核とする強力な武士団を形成し、北条氏を凌ぐ大勢力となったこと。

三つ目には比企地方は大小の谷が多く、谷津田に恵まれ安定した食料の産地であり、また馬の飼育に必要な牧場は広大で「製鉄用の砂鉄」も豊かな場所であったこと。

このような理由で北条氏は比企氏を滅ぼしたと考えられています。

三つ目については以前にも時政が関わったとされる曾我兄弟の仇討ちにも砂鉄が絡んでいる節があります。(NHK2022.7.20放送の歴史探偵より)

「曾我兄弟の仇討ち」で、巻狩り参加者ではなかった曾我兄弟はなぜ広大な狩場で、また多くの御家人がひしめき合う中、迷わず仇討ち相手の工藤祐経(くどうすけつね)の場所までたどり着くことができたのでしょうか。

それは、各御家人の宿舎など詳細な情報を握り、その手引きが可能だった北条時政の黒幕説があります。

時政は曾我兄弟の烏帽子親でもありましたが、仇討ちが目的だったわけではなく、本当の目的は二人の仇討ち相手である工藤祐経の領地「伊東の浜」でした。

ではなぜ伊東の浜なのか、それはその黒い砂浜に見られるように豊富な「砂鉄」が採れるからだと思われます。

同じように比企地方では鉄が採取できました。

比企総研の髙島代表のお話では、畠山重忠もかつて出生の地畠山から菅谷に館を構えるにいたった背景にはその「豊富な鉄」があったということです。

小川町の槻川(つきかわ)や都幾川(ときがわ)に豊富な砂鉄が出たということです。

また重忠は菅谷館の鬼門にあたる場所に鬼鎮神社を祀りました。そこには今でも何本もの鉄の棒が祀られていて、鉄とのつながりの深さを思わせます。菅谷という地名そのものが「鉄」を意味するという専門家もいるそうです。

北条時政がその豊富な鉄を狙って比企氏を、そしてやがて畠山重忠も同様に滅ぼした理由、その背景に「鉄」と考えるのは無理はなさそうに思います。

そして1203年9月。頼朝の死からわずか4年後、比企の乱が起こりました。

比企能員は、北条時政から頼家の病状平癒を祈願するための薬師如来の「落慶法要」に呼ばれます。

能員は一族からは危険であると引き止められながらも、仏事に武装していくわけにはいかないと無防備で名越の時政邸を訪れ、誅殺されてしまうのです。

その後、能員の従者が状況を逃げ帰り知らせ、一族は一幡の邸「小御所」に立て籠ります。そこへ北条政子が討伐の命を下し、北条義時を大将とした軍勢が小御所に襲来するのです。

比企一族は決死の戦いを繰り広げますが、やがて力尽き一幡と共に自ら放った火に包まれてなくなりました。

(京都側の記録である『愚管抄』では、この時一幡は母が抱き、かろうじて一命をとりとめますがその後11月に義時の郎党に捕らえられ刺し殺されたとあります。)

長い年月をかけて源頼朝、頼家の信頼を獲得し、力をつけていった比企一族でしたが、なんとわずか1日にして滅亡する運命をたどりました。

「戦術家であって戦略家ではない」とは、埼玉県民の特性としてよく語られる言葉です。

信心深い能員の性格を知り、数々の事件の黒幕と言われながらも表にその名前を残さなかった戦略家、北条時政。その前に武蔵武士らしく散った比企一族だったのだと思います。

 

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比企総合研究センター https://www.hikisouken.jp/ 参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊

Youtube 紙芝居「比企氏物語」 文:比企総研 髙島代表 絵:藤本四郎さん(まんが日本むかしばなしの絵を担当され、現在は嵐山町にいらっしゃいます)こちらも併せてどうぞ。埼玉県滑川町のチャンネルです。

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