お知らせ

2022/06/21 コラム

【コラム】鎌倉殿の13人 「せつ」こと、「若狭の局」の頼家への思いが残る遺跡群

 

今回は二代将軍頼家の妻となった、比企能員の娘「若狭の局」について、ゆかりの地マップとあわせてご紹介します。

 

 

突然の頼朝の死後、二代将軍となった源頼家。その妻の「若狭の局」はドラマの中では「せつ」として登場しています。

頼家と若狭の局(せつ)の間には一幡と娘の媄子(よしこ)が生まれます。

これにより、比企氏は将軍の外戚となり、二代将軍頼家の側近として益々勢力は強大化し、北条氏をしのぐほどとなりました。

それはその後の比企氏の乱につながっていきます。

比企能員は、薬師如来の法要と偽って招かれた北条時政邸(鎌倉市名越)で討たれます。

その後、北条氏は「一幡」のいる比企ヶ谷の小御所(こごしょ)を襲います。大軍にせめられた比企氏は自ら館に火を放ち、一幡は焼死、若狭の局は池に身を投げて自死したといわれています。その時、一幡は若干6歳。

比企の乱の翌日、灰の中から一幡の遺骸が見つかり高野山に葬られました。同じく見つかった一幡の着ていた着物の小袖は「一幡君袖塚」として今も当時鎌倉の比企氏の館跡にある妙本寺境内に残っています。埼玉県比企郡にある、能員の館があったと伝わる場所は①城ヶ谷(じょうがやつ)といわれています。残念ながら遺構は残っていませんが、城ケ谷沼のあたりのようです。

比企の乱で亡くなったともいわれる若狭の局ですが、畠山重忠の助けもあって比企の乱を逃れた、という説もあります。その説を裏付けるように比企郡に残された伝承と遺構をご紹介します。

頼家が北条氏によって伊豆の修善寺に幽閉されると若狭の局はそれを追ってひそかに伊豆に赴きました。

その後、頼家が殺害されると、その位牌を抱いて比企郡大谷村に逃れ、④比企尼山(びくにやま)に庵を結び、村の名前と頼家の法号をとって「大谷山寿昌寺」(たいこくさんじゅしょうじ)を建立しました。そこで頼家の霊を弔ったと伝わっています。(寿昌とは頼家の法号です)

※比丘尼山(びくにやま):もともと比企禅尼が草庵を営んだと伝えられている場所です。

この「大谷山寿昌寺」は、現在は残っておらずゴルフ場の中になっています。

そして、この比企尼山の北側には、この地方で最も大きい沼である③串引沼があります。ここには次のような伝説が伝えられています。

「その昔、比丘尼山の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていた若狭の局が、祖母の比企禅尼のすすめで心の迷いを去るために、鎌倉より持参して肌身離さず持っていた夫頼家の鎌倉彫の櫛をついに捨てようと心に誓い、夜の明けそめた朝、朝の勤行を済ませ、祖母と二人連れだってこの奇比企沼に行き、肩身の櫛を投げ入れた。櫛はかすかな水音を残して沼の底深くに沈んでその姿が見えなくなった。局はもちろん、禅尼の両眼からも涙がとめどなく流れ落ちた。時は元久二年七月半ば、夫頼家将軍の命日にあたる日であったという」

若狭の局が建立した「大谷山寿昌寺」は、江戸時代に入って復興され、その山麓の扇ヶ谷に移されました。

そして②扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ)と名付けられます。このお寺ではかつて若狭の局が持参したという頼家の位牌を今に伝えています。

最後にもう一か所。

比企尼山の南、秋葉神社の西側の⑤梅ケ谷(うめがやつ)は若狭の局が年老いてから隠棲した地といわれています。この谷は東方から南西へと丘陵が続き、泉の湧く暖かい日だまりの地で、昔から梅の古木の多い美しい花園だったそうです。

夫を失った若狭の局が比企尼山の草庵から移り、静かに余生を送るのにぴったりの土地だったと思われます。

そして同じく神社の東側の菅谷には比企西国三十三札所菅谷観音堂がありました。

若狭の局は頼家を殺され悲嘆にくれ、それはまるで体を蛇に巻き付かれたような苦しみ方だったそうです。この苦しみを鎮めるために「蛇苦止観音」を作り、ここ菅谷にお堂をたててお祀りしたそうです。この地は現在「須加谷」と呼ばれています。

若狭の局にまつわる伝承や遺跡の数々は、頼家の亡き後、彼を失った深い悲しみと苦しみを表しているものが多くあります。

晩年は穏やかな気候と景色が続く梅ケ谷で、美しい梅を眺め心穏やかに過ごせていたのだと思いたいです。

マップ:東松山市観光協会より

参考文献:甦る比企一族 比企総合研究センター刊

比企総合研究センター https://www.hikisouken.jp/

コラムの監修:当社のオーナーでもある比企総研代表の髙島敏明様にお願いしています

その他の「鎌倉殿の13人 比企氏のコラム」はこちらから→コラム一覧