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2023/04/26 お知らせ コラム

【コラム】松山陣屋・利根川に翻弄された前橋藩とのつながり

今回のコラムは松山陣屋と前橋藩との繋がりについてご紹介します。

かつて、東松山市役所があるあたりには松山陣屋がありました。松山陣屋とは地域の治安維持や政務をおこなうために設置した屋敷です。

なぜ、松山陣屋がおかれたのでしょうか。それには前橋藩と深い関わりがありました。

前橋藩の居城であった前橋城。この前橋城はかつて厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、関東七名城の一つであり、越後の上杉謙信の関東への進出の拠点ともされていました。その後数々の城主を経て、徳川家康の時代には家康の重心であった酒井重忠が入城します。

酒井重忠は城の大改修を行い、3層3階にもなる天守閣を造営し、近世の城郭へと変貌させました。そして17世紀から18世紀頃には厩橋の地名は「前橋」と改名され、城も「前橋城」と呼ばれるようになりました。

しかし、この前橋城は暴れ川として有名な利根川に隣接していました。天険の要害として城を守っていた利根川でしたが、その激流によって年々城を侵食していきます。

前橋藩5代藩主忠挙の頃には、本丸3層のやぐらが倒壊し、その際は幕府に国替えを働きかけますが叶いませんでした。その後、藩の中では危機を脱するには国替えやむなし、という意見が暗黙の了解となっていきます。

前橋藩9代藩主の酒井 忠恭(さかい ただずみ)の時代も同じ状況が続いていました。幕府の重鎮となっていた忠恭は、同じ15万石ながら豊かと言われていた姫路への国替えを計画します。

その時の姫路藩主は松平 朝矩(まつだいら とものり)でした。朝矩は父が急逝し、当時11歳で姫路藩を継ぐことになっていました。しかし西国の要地であった姫路藩を治めるには幼く、「藩主が幼少の場合には他国に国替え」という不文律もあり、前橋藩の酒井忠恭と交代で前橋15万石への転封を命じられます。

転封先の前橋城は以前からの利根川の氾濫による浸食が進み、いよいよ本丸まで浸水し、居住するのは危険な状況になっていました。

松平 朝矩は再建を目指しましたが、かねてからの財政難もあり1767年、幕府の許可を得て居城を前橋から前橋藩の飛び地であった武蔵国川越城に移しました。以降は川越藩となります。

前橋城周辺の前橋領は川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は1769年に廃城となりました。

領主が去り、荒廃した前橋領では領民の前橋城再建、城主帰城の機運は高まります。再三にわたり松平家に請願しますが叶いません。

それから100年。

横浜開港に伴う生糸貿易で前橋も活況を呈します。前橋の生糸は「マエバシルク」と呼ばれ外国人の間でも大変な人気でした。

なぜ前橋で生糸の生産が盛んになったのでしょうか。

それは前橋が養蚕に適した気候と土壌条件がそろっていたこと。そしてもう一つの大きな理由は利根川の水運に恵まれていたことがあげられます。

鉄道も車もない時代。船によって糸の輸送が容易になり、生産コストを下げることができました。かつては利根川の氾濫によって財政が苦しくなっていた前橋藩。それが利根川によって一気に活気と財力を取り戻したのです。

それを背景に前橋領内では前橋城の再建と藩主の復帰を求める強い要望が一層強まります。

当時の川越藩主、松平直克は遂に幕府に願い出て前橋城再築に動き出します。領民による出資や労働奉仕を受け、前橋城は無事竣工を迎えます。そして1867年3月、直克が入城し前橋藩が再興しました。

こうして藩主が前橋に戻ると、武蔵国には比企郡を中心に約6万2千石の領地が飛び地として残ってしまいました。これを管理するため、前橋藩「松山陣屋」がおかれたのです。

この松山陣屋は現在の松葉町1丁目のほぼ全域にわたります。

当時は幕末の動乱期であり、役所や御殿などの主要な施設を守るために土塁や城壁の外側には堀もありました。

国内でも有数の規模であった松山陣屋。

しかしながら1871年(明治4年)の廃藩置県により、わずか4年でその役割を終えることになりました。

先日、比企コラム掲載の際に監修でお世話になった当社のオーナーでもある比企総合研究所の髙島所長より、前橋藩松山陣屋資料館の内覧会のご案内をいただき伺ってまいりました。

私自身それまで地元の歴史にも関わらず、ほとんど詳細を知らなかった松山陣屋についての理解が深まる資料館でした。

資料館の正面には、松山陣屋の当時の模型があり、土塁やお堀の様子、当時の陣屋の暮らしの様子も見ることができます。

その他にも当時の遺品を解説付きで見学することもできます。

川越藩松平大和守家に伝わったとされる御手杵(おてぎね)の槍レプリカも見ることができます。実際に目の前にするとその大きさに驚かされます。

こちら、参勤交代で藩主の乗り物の脇についてその場所をしらせたそうですが、熊の毛でおおわれた鞘はそのままでも約20キロ。雨が降ると水分を含み、さらに重くなり、約40キロにまでなったそうです。相当な力が必要でしたね、、

 

そして、この資料館。今は髙島倫子さんが松山陣屋顕彰会として運営されています。

 

前橋藩松山陣屋資料館についてはこちら(2023年5月開館予定・予約制)

https://www.strawberry19510410.info/plate